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私の作品の視覚的特徴である朦朧とした肥痩線は、日本画に見られる鉤勒法を変化させたもので、それはカタチだけでなく

陰影や躍動、空気感を演出している。

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​梅図 / Umegram series 

この作品は、一年の終わり厳しい冬の中で早々と花をつける冬至梅と雪景色を描いたものです。

 

日本の風土と深く結びついた梅は、その美しさや縁起の良さから、装飾としても人々の生活と密接に関わってきました。

 

その歴史は奈良時代の伝統的和歌集である万葉集にも引用されるなど、文化や芸術にも影響を与えてきました。

 

梅の花は、厳しい冬を乗り越えて最初に咲く花として、強い生命力や忍耐の象徴とされています。

 

瞬間的な梅の花よりも、梅の持つ過程、つまり生命力に魅了されたのは、自然に対して感謝と畏怖を忘れない日本人らしいと思います。

 

今モチーフとして梅を選んだのは、芸術家としての心境も反映されているのかもしれません。

 

早々たる季節の始まりと力強い生命力を感じてください。

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​Anagram series 

芸術は見る人がいて完成する。

 

現代アートは時に過激で主張が強く、強烈なメッセージを発信するための手段でもあるが、

 

相手に答えを委ねる行為こそ、芸術の趣ではないだろうか。

 

作家の存在というのは、意味を問うきっかけにすぎない。

 

僕のアイディアやアイデンティティ、モラルやルール、オリジナリティやインスピレーションに、いちいち意味を問う必要はない。

 

僕は僕自身を言語化できず、それを一枚の絵画として納めた。

 

これはあなたとの物語の出会いでもあり、目に写る一瞬の興味を手に取り、内容を想像しながらページをめくるその行為こそ、僕の芸術家としてのロマンである。

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​Serialism 

​​

純粋な好奇心やアイデンティティを見失う度に、僕たちは自分の存在や作品を俯瞰視することで、世界と自分の縮尺を自由に行き来してきました。

 

物事を注視し続けると全体像や意味を見失い、立場や視点が変わるゲシュタルトの基本概念は、僕にとって重要な事であり、伝えたい事のひとつでもあります。

 

これを簡潔に説明するならば、それ自体が完全な全体像であり、気づきの欠落した空虚な現代人に命を吹き込むおまじないのようなものです。

 

これらは表面に現れるものが最も重要で、無意識下まで掘り下げる必要は大してありません。

 

人は方法にこだわるあまり、純粋な動機や興味を見失いがちですが、自身のカルマの構造を理解すれば、自虐や消耗戦ばかりの人生の脚本を再編することも可能です。

 

難しく考える必要はなく、この心地の良い違和感に乗せて、カタチという概念がどういうものか自由に感じ取ってみてください。

​*平面に備わる空間の奥行きや直列構造を曖昧にすることで、別の視点や可能性を生み出し、鑑賞者のゲシュタルトを崩壊させるこの表現方法をシリアリズムと名付けた。​

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​Biogram series 

 

古代の日本では草木、動物、人間、無生物、人工物など全てに超自然的な源から生命が宿るとされている。

​この作品はその思想により生まれたキャラクター達を画面いっぱいに寄せ集めた僕の心のバイオグラフィーでもあり、Anagram seriesで表現したかった具象と抽象の間をまた異なる形で表現しました。

​Engram series 

作家の生まれ育った環境やこれまでの作品。着想から完成に至るまでの時間。

絵画とは時間を閉じ込める1つの手段なのかもしれない。

日々変化する感情や価値観を新鮮な状態で記録し蓄積していくために、区画化された画面を 1 日 1 マス 埋めていくという試みから始まったのが Engram series です。

繰り返す事で紡がれていく痕跡に日々を想い重ね、毎日朝が来るというそんなありふれた奇跡と、自分 が歩んできた軌跡を振り返るきっかけになれば良いなと思っています。

現代的、芸術のかたち

福島滉平​

 

私はインターネットやギャル文化など、サブカルチャー 全体の転換期である90年代ど真ん中に生まれ、ポケットモ ンスターにモンスターハンター、どうぶつの森、NARUTO やONEPIECEを中心に育ったサブカルの特異点ともいえる世代である。

インターネットの普及は広がりつつあったが、当時はケーブルや赤外線での通信プレイが基本で、当時小学生の私が 他とコミュニケーションをとるためのひとつの手段でも あった。コミュニケーション下手な日本人にとって共通言 語は不可欠であり、こうした『日本の大衆芸術』ともいえ る文化に浸るように過ごした私は、芸術の表現や可能性、 哲学的思想など、大切なことの多くを漫画やアニメ・ゲー ムの世界から学んだ。

 

本稿は、美術教育を受けていない私の個人のフィルター を通した『現代美術』と『現代的、美術のかたち』につい

て言及し、現代美術の定義と可能性を主張する事で、現代社会における『芸術の合理性』を証明することが目的であ

る。

日本のサブカルチャー(大衆文化)は、国民性・治安の 違いや漫画文化によるリアリズム脱却により、長い年月をかけて成熟した境界の曖昧な特有の領域である。フィンセ ント・ファン・ゴッホをはじめ、世界中の画家たちに多大 な影響を与えた大衆文化のひとつ『浮世絵』は、世界の美術史を語る上で欠かない存在となった。

 

浮世絵は、江戸大火時代つらい世の中だからこそ、浮き 浮きと楽しんで生きるべきだと考え、今を楽しみ、復興していく江戸の町と共に変わりゆく流行を絵画化したものです。当時はそれらが庶民の心を支える自己表現の場所であ り日本のリアリズムやアイデンティティを支えながら独自 発展していきました。

 

当時の浮世絵は庶民も手にしやすい身近な存在で、日本から壊れやすい品物を輸出する際の緩衝材として浮世絵が使 われていたという話があるほど、人々の暮らしに浸透して いたほどであった。歌舞伎役者や美人を描いた画や、社会への風刺画、性交のさまを描いた春画など様々なジャンル が派生していき、今日の日本のサブカルに至る。

 

貴族や一部の富裕層しか楽しむことの出来なかった、西洋の『威厳高い芸術』と、民衆を支えるために存在してい た、日本の『大衆的な芸術』とでは、存在意義がまるで異 なるのだ。江戸時代の日本の『ハイカルチャー(威厳高い 文化)』というと、書道・茶道・華道・歌舞伎・能などが挙げられるが、今では伝統的国民文化としてエリート主義 的に存続されており、現代においてもこれらの伝統文化が 身近な存在とはとても言い難い。私の学生時代で例えを挙 げると、『萌えキャラクター(美少女)に本気で恋する同 級生』や、『ヤンキー漫画の影響を諸に受けた不良少年』、 『毎週一冊の週刊少年ジャンプ(漫画雑誌)をクラスで回 す習慣』など、サブカルチャーは、私達日本人の生活に深 く根付いている。

 

このように幼少期から『大衆的芸術作品』が日常的な存在であった私は、芸術を学ぶという事に違和感を覚え、高校と大学で建築を専攻しました。しかし、大きくなるにつれ『芸術は特別なもの』という風潮に直面し、それから私は『芸術の優位性』とはなにか探究する旅に出た。

 

西洋の『威厳高い芸術』は、カメラのない時代の王族や 富裕層が権威や構図を示すものとして存在していたため、 写実的な造形美を追求した職人的な『美術』は、作家の意志を完全に排除していた。時代は流れ、19世紀後半のカ メラレンズ誕生により行き場を無くした画家たちが、絵画 を存続させるべく発展させてきた『芸術の反発運動』が現代美術の根源である。

 

当時のカメラは、少なくとも30分間は静止する必要が あったため、当初の印象派たちは、カメラではとらえきれ ない街の風景や水の流れなどを、画家たちはキャンバスに 収めようとしたのだ(クロード・モネ、ルノワール)。写実主義やアカデミックアートと対照的に、より瞬間的な特 徴を追い求めたその時代は、『カメラの特性に対するカウ ンター(反発)』として発生したものだ。

 

そして瞬間的に写真を撮影できる現代における『威厳高い 芸術』の優位性は、文脈(背景や動機)にあるのだ。こう して現代美術を十分に解釈する上で、説明は不可欠なもの となり、それが難解さを示してしまっている。本来、付加価値というものは相対的なので通貨はひとつの指標にすぎ ないのだ。

 

西洋の富裕層のための『威厳高い芸術』も、日本の『民衆のための芸術』も、国々の文化的思想の違いによるもので あり、『美術という文化』を基準で測ろうとする事自体『芸術的』とは思えない。

 

現代美術の世界に評論家などの専門職が存在するのに対して、日本は民衆がそれぞれ評価をする。作品のファン同士 が意見や考察を語りあうなどといった、コミニティの形成 に西洋美術と日本美術の差異があり、『オタク』という存 在は美術をこよなく愛する純粋な評論家のようなものである。

 

日本人にとって『芸術は特別なもの』という事への違和感は、こうした『芸術がみんなのもの』と考える所にあり、これが『現代的、芸術のかたち』だと考えている。

 

現代においてアニメや漫画は世界を魅了する文化へと成長を遂げましたが、「日本を知りたければアニメをみろ」 といわれるほど、日本の歴史的背景や生活が描かれており、社会の世相を風刺したユーモラスな表現や、解放的な 性をデフォルメするなど、犯罪件数の少なさによる表現の 幅も伺うことができる。まさに、日本のアイデンティティ が色濃く反映された『日本のカウンターカルチャー』なのである。

 

米国の社会的少数者の自己表現の場してストリートやヒッ プホップカルチャーが生まれたように、その多様性を 『文化的側面』として絵や漫画で残してきた『日本は、創作において非常に寛大な国』なのである。これまで他国に 淘汰されてきた文化や歴史を側面から支えてきたサブカル にこそ、日本のリアリズムが命脈しているのだ。

 

これまでの旅路、私は『BMX(競技用自転車)』に出会 い『ストリートカルチャー(米国の対抗文化)』に触れる ことで、サブカル、ストリート、現代美術にそれぞれ『カ ウンター(反発、対抗)』という親和性と差異を見出し、 『現代アートの社会的な役割や意義が、新たな時代や価値 観を作り上げるところにある』と考えるようになった。

 

純粋な表現者は常に外の可能性に目をむけ、過去に囚われ ることなく変化していくものだ。 美術史や技術を学ぶこと は大切だが、芸術家になるために全員が同じ基準に従う必要もない。自己と他の間に存在する反発や、社会や業界へ

の反骨精神こそ、現代美術の根源的要素であるからだ。

 

私が建築を学んでいたのは、幼少期から『構造オタク』 で、生きる動機はあらゆるものの仕組みや構造を理解した いという好奇心にある。中でも精神心理の構造を研究した パールズ博士の『ゲシュタルト心理学』に興味がある。

 

ゲジュタルトとは、ドイツ語で『かたち』を意味するのだ が、『ゲシュタルトのアプローチ』では、人生は過去や未来ではなく現在で起こるという基本的な前提があり、これ は『神道 (日本古来の民族宗教)』における『中今』という 概念に当てはめられる。過去に想いを馳せたり、未来につ いて空想している時、私たちは十分に存在しているとは言えないのだ。人によって環境や心理状況が異なる『芸術的 価値』というのもそれ単体では存在できず、鑑賞者の『中 今(現在)』に触れることで、『芸術のかたち』が完成する。

 

私が『キャラクター』や『デフォルメ(抽象化)』を描く 理由も、自己と他を接続するだけでなく、子供から大人に なる際の『移行対象』として、過去から今、そして未来へ と接続する事が目的である。

 

こうした絵画における『かたち』という概念からの脱却により相対的な『ゲジュタルト』を生み出すアプローチは、私なりの現代美術の存在意義に基づいたカウンターの『かたち』なのだ。

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